2009年9月30日水曜日

プラチナという村


飛行旅、8日目。

夜が明けきった9時頃、Tuntutuliakの学校を出て飛行場へ向かう。
村に張り巡らされているwalkboard(木道)には霜が降りている。

北風は依然としてどこでも強く、
アラスカ南西部は、大気の動きに海と陸の境目がない。
地形が完全にフラットなアラスカ南西ツンドラ地帯にとって
ベーリング海は常に一対のものであるのだ、ということがすぐわかる。

Bethelに降りて、燃料補給。
アラスカの僻地では、燃料を補給できる場所が極端に少なく
飛行における給油マネージメントが生死を分ける場合もある、
しかも値段はとてつもなく高い。

旅後半いろんな状況が厳しい中、村を転々と回る。

EekQuinhagak

Eekでは、高校の先生にお願いされて授業に参加。
今回の旅の目的のひとつである永久凍土に関する軽い授業だ。
授業を受けている高校生は、日本で言えば中学生ぐらいに見える、
そのうちのひとりに妊娠しているお腹の大きい女子生徒がいた。
アラスカ、ネイティブ村は子供の数がとても多い。

Quinhagakでは、着陸と同時に「Landing Fee」を請求される、$15ドル。
代金を払い終わると代金請求係の女性は、
誰もいない飛行場に独り佇んで次の飛行機が来るのをじっと待っている。
これも仕事なのか、
でも飛行機なんてせいぜい、1日に2〜3回しか来ないはずなのに。

GoodnewsPlatinum

Goodnews
名前のおもしろさとは裏腹に、とんでもなく着陸のしにくい飛行場、
その原因は、飛行場の北側にある山だ。
北風の強風時には飛行場を乱気流の渦にしてしまうこの地形、
横風に弱い飛行機である尾輪式のハスキーに10〜20ktで変化する横風が襲ってくる、
着陸直前に急激に上下する飛行機を地面に付けるために
スロットル、ラダー、操縦桿すべてを駆使して、なんとか接地させる。
とんでもない動きをして着陸する飛行機は、傍目から見ると下手くそに見えるかもしれない、でも生きていればいいのだ。

Platinum
プラチナという名の村。砂嘴に村のほとんどがある。
隣接する山の麓にプラチナ鉱山があるらしく露天掘りの風景が上空からわかる、
ノームやフェアバンクスの金鉱山を思い出して、
この国の豊富な地下資源を想像する、
そしてそれを必要として生きる人間たちも。

土地は国そのものであり、我々は本当に地球から
いろんなものを採って生きているのだと思う。

Platinumを離陸して、
いよいよ旅は最終パートである。

写真:プラチナ鉱山

2009年9月29日火曜日

海を越えて

昨日のMekoryuakから無事に海を越えて本土に戻ってきました。



高度10000ftまで上昇、外気温−20度のなか、
海峡を映す太陽と雲のシルエットがあまりにも印象的で、
いままでやってきたことや、これからのことなどが
どうでも良くなってくるような、そんな瞬間に包まれました。

真にアラスカの南西に惹かれました。


その後、

Chevak→Kipnak→Kwigillingok→Kongiganak→Tuntutuliak

とまさしく舌をかみそうな名前のユピックエスキモー村に立ち寄りました。
(軌跡と場所はこちら)

我ながら辿ってきた軌跡を見ていると、頑張っているなぁ・・・
そう、また風がとんでもなく強くなってきて
またまたやばい感じです、気圧配置も微妙です。ベーリング海は恐ろしい。

それでも子供は風の子です。
寒い外でもみんな元気に遊んでいます。




へとへとになって着陸し村に入るので
子供達の笑顔には、とても癒されます。

明日も頑張ろう。

2009年9月28日月曜日

南西アラスカの果てより





昨日までの強風が収まり、四日ぶりに飛行旅再会です。
本日は5カ所の村へ飛びました、ユーコン、カスコクゥムデルタは、
「ここはどこか別の星である」
と言われれば納得してしまうような非現実の景色でした。

あと、村を回って思ったのですが、やはりアラスカの中でも南西部は、
文化人類学的?に秘境である感じがします、他の北や西の村とは
ちょっと村の雰囲気も文化の残り方も違う感じです。
個人として行くのは困難ですが、それでも誰も知らないアラスカとして
なんとかして一ヶ月ぐらい村に滞在すれば、大きく人生が変わることでしょう。
そうシシュマレフに滞在した星野さんのように。

現在、Mekoryuk
という場所にいます。

到着が夜の九時ぐらい、真っ暗雨降りの中、校長先生宅を訪ねて、
学校に泊めてもらうことにしました。

しかし、、

校長先生「いま、学校はインフルエンザで休校中だけれど、それでもいいかい?」

俺「あ・・・OKです(ほかに選択肢がない、、ここは本当の孤島だから)」

校長先生「じゃあ、しっかり手洗いして感染しないようにね」

また子供達に会える!と思っていたのに残念。
この孤島でしばらく滞在しても良いかな?と思っていたのにそれは無理そうです。


ちなみに友人の文化人類学者さまによると、、、
このMekoryukという村は、ロシアと早いうちに同化してしまったらしく(同化という言葉が正しいかどうかはわかりません)すでに昔のエスキモー文化は、残っていません。
しかしながら、最近、他の村で行っているような伝統的文化を取り戻そうとして、博物館にあるような衣装などを復活させて行事などをとりおこなっているらしいです。

しかし、それは百数年前そのままの雰囲気であるらしく非常に滑稽である、とのことです。日本のお侍さんみたいなもの??

伝統的とされる文化も、時代とともに変化していると言うことでしょうか。


明日は海を越えて、本土に戻ります。

2009年9月27日日曜日

ユピックエスキモー村滞在記(5)

ナイトミュート滞在最終日、
ベセル周辺の村を回ってお仕事をしている
エリンさんとベリー摘みに出かけました。


明るく快活な彼女、アメリカ本土出身の女性なのですが、
アラスカの小さな村にあこがれてベセルにやってきたそうです。
ナイトミュートにはお仕事で一泊なので、
では!一緒に裏山にのぼってベリーを摘みに行こう!
ということになりました。

例によって私は、ベリー摘みがあまり得意ではなく(すぐ飽きてしまう)
まあ、散歩がてらおつきあいしようと思っていたわけですが、
この軽い丘になっている場所がかなり綺麗でした。


途中から、ユピック少女たちもベリー摘みに合流して、
女性達のベリー合戦の始まり・・・


女性のベリーピッキングは、始まったら止まりません。

そして結局、真っ暗になるまで。


でもアラスカの、何もなくて美しい自然のなかに
ぽつんとある村の夜景が綺麗です。

こうしてナイトミュート最後の夜は終わりました。

いろんなことがあったこの村、
最後になんとも思い出深い記憶となりました。

2009年9月26日土曜日

ユピックエスキモー村滞在記(4)

バレーボール後、部屋で休んでいたら
ユピックエスキモーの子供二人がやって来た。
遊びに来たのは、
ソフィとジャスティンという13才の
少しまじめな話もできる子供たち。

その二人とはいろんな話を小1時間ぐらいした。
日本のことを聞かれたり、彼らのお父さんやお母さんの仕事のことや、
今日食べた夕食のこと、あとは学校の少し太り気味な女の先生の悪口だったり。
ソフィは、「わたしを養子にして日本に連れて行ってよ」なんて
本気とも冗談ともつかないことをいっていた。

そして最後には二人でエスキモー太鼓を目の前で叩いて歌ってくれて
なんか妙にほのぼのとしてしまい、
本当に退屈しない、そう人間的に退屈しない村だな、、とつくづく思った。


ソフィとジャスティンに聞いたところによると、

本日の夕食

ドライフィッシュ、フローズンフィッシュ、エスキモーアイスクリームなど

ドライフィッシュの種類は、
ブラックフィッシュ、サーモン、ハリバット、パイク、トラウトなど。

そして食事の割合は、

食事の90%は、土地のもの。
残りは10%ぐらいは既製品。

だそうだ。

ジャスティンのお父さんは、ほぼ毎日、狩猟に出かけていて
何かを獲ってくるらしい、最近ではガンなんかが旬であるとのこと。
そういえば昨日、学校の先生が家の前でガンの毛をむしっていたのを見た。
「今日は、スープにするのよ」とその白人の若い女性の先生は言っていた。
狩猟採取は日常のことになっているんだなぁ、というわけです。


午後9時、
もうすでに誰もいない暗い学校を歩き回ると、

「麻薬は冬のようなものです、我慢すれば春が来ます」

「子供達と覚醒剤の危険性について話そう、そして我らの文化を語り継ぐ重要性を教えよう」

「老人の話に耳を傾けよう〜豊かな文化の基盤は、老人と子供のつながりにあります」

なんてポスターが貼ってある。

俺は村の現実を見ていないのか、こんなポスターが学校に張ってあるなんて
いまのところ理解しがたいけれど、冬になればそれがわかるのだろうか?

ここに冬もいなさい、と言われたらどうするだろうか。
ちょっと考えてしまう秋の夜長、ナイトミュートでした。

明日は、晴れて欲しいです。

2009年9月25日金曜日

ユピックエスキモー村滞在記(3)


ユピック語の授業の後は、
ナイトミュート村に2件しかないグロッサリーストアで食料の買出し。

売ってるものは、缶詰やカップラーメン、冷凍食品や冷凍肉など。
基本的に保存可能なものばかりだが、
一部、謎の昆布みたいなものも売っていた。(後で要調査)
子供達が、いろいろ説明してくれたり、
あれ買って!これ買って!
と騒ぐ中、

ビーフシチューの缶詰×2
冷凍ピザ、プリングルス、ドライライス
ジュース3本

などを購入、しめて・・これだけで3800円!!
なんと値段が市価の二倍から三倍もする。
陸路アクセスができないため空輸送コスト分なのだろう。


村の交通路になっている木道を歩いて学校に戻る。
10分も歩けば、その全容がわかるほど小さい村は、
いわゆる湿地帯のような場所の川沿いにあるので、
家も川沿いだったり木道沿いが多い、、というか
そこにしか建てられないようである。
感じとしては釧路湿原の下流部に村がある、という趣で
村を歩いているとなんだか北海道を思い出して景色は優しく感じられた。

学校に戻ると、課外活動として生徒達がバレーボールをやっていた。
バレーボールは、何年やっていなかったっけ・・・などと思いながら
いつのまにか女子高校生と思われるチームに混じって、
久しぶりのサーブ&レシーブに興じていたが
スパイクを打つような機会はなく、まったりバレー・・それもいいか。

子供達は、いったん家に戻って食事をとった後、
学校にもどり追加のお勉強していたり、遊んだり。
学校を中心に活動しているような雰囲気でした。

現在、午後8時。

やっと学校は静かになり俺一人になりました。

2009年9月24日木曜日

ユピックエスキモー村滞在記(2)


給食を頂いた後は、
エスキモーの言葉である

 YUP'IK (ユピック語)

の授業に参加しました。

先生は、アントンさん。

授業前、エスキモーのアントンさんに
ナイトミュート村のユピック語についていろいろとインタビューしました。

すると意外なことが・・

1.ユピック語は、まだ英語と同じぐらい家庭で使われている。
2.学校ではユピック語をしっかりと教えている。
3.実際、アントンさん(まだ30才ぐらい)はユピック語で電話していた。

村でも、ほとんど話されていないのかと思っていたので、
(実際に子供達に聞いてみて「知らない」という回答が多かった)
びっくりの事実でした、場所によるそうです。

さて実際に授業を受けてみました。

今日は、数の数え方です。

1 atauciq(アタウチャック)
2 malruk(マロゴック)
3 pingayun(ピンガンュン)
4 cetaman(セタマン)
5 talliman(タヒーマン)
6 arvinlegen(アビーラガン)
7 malrunlegen(マルゴゥナルガン)
8 pingayunlegen(ピンガンュンナルガン)
9 qulngunritaraan(読めず、、忘れた)
10 qula(コラ)
11 qula, atauciq(コラ アタウチャック)


20 yuinaq(ユイナック)

30 yuinaq qula(ユイナック コラ)

40 yuinaak malruk(ユイナーク マロゴック)


100 yuinaat talliman(ユイナート タヒーマン)



1000 tiissitsaaq(テシィーサック)


まず1〜5までは、比較的簡単なんですが
6〜9は、めちゃくちゃ読み方が難しく
しかも9はスペルが長すぎ。

10以降は、法則性に従っているように見えます。
が覚えるとなると、これは大変なことになりそうです。

子供達は、俺のことが珍しいのかユピックの練習はほどほどに

「日本語で私(子供)の名前を書いてよ」

とせがむので

Imen George (アイメン ジョージくん)

の名前を漢字で

愛面 情事 くん

と書いてあげたらとても喜んでくれて
俺は複雑な心境でした。

あと習ったもので興味深かったのは、

単語として

「彼らの最初」、「彼らの2回目」、「彼らの3回目」、、

などの言葉が「ひとつの単語」として存在するという点です。

今回持ってきたエスキモーに関する本(エスキモー極北の文化史 宮岡伯人)にも、
たとえば熊を指し示す言葉としての代名詞は、

近づいてきている熊
遠ざかる熊
横切っている熊

などの言葉が、ひとつの単語で表現できるらしく、
狩猟に関しては、非常に使いやすい言語であるらしいのです。
(この本によればバイリンガル(英語とユピック語)の人が狩猟をする場合は、圧倒的にユピック語を使うそうです)


「言葉こそ、我々の存在そのものである」

と誰かが言っていたような・・・


文化人類学を学びたくなってきたような、そんな
天候回復待ちのエスキモー村体験でした。

2009年9月23日水曜日

ユピックエスキモー村滞在記(1)




離陸を断念して村に戻り
学校に戻って、まずは給食を頂きました。

<メニュー>

タコス(辛さなし、ハードシェル)×2
スィートコーン
フルーツポンチ
ケーキ(誰かの誕生日だったらしい)

以上、$4なり。


昔懐かし、列の最後尾に並んで給仕のおばさんを待つのですが、
その間に子供達といろいろお話ししました。

日本語のこと、ユピックのこと、村のこと、
そして子供達が俺に名前を付けたこと。

英語名:John(ジョン)
ユピック名:Cangiq(チャンニギアック)

なぜジョンなのかはわかりませんが、
ユピック名の「チャンニギアック」は「黒い魚」という意味だそうです、
黒い服を着ていてイメージがそんな感じだったということです、
子供はかわいいもんです。

子供達とお話しをしながら、美味しくたべました。
かなりお腹いっぱいです。
ゆっくり食べ過ぎて授業時間に遅れて
校長先生に怒られている子供達も数名いました。

ちなみに子供達に、
「いつも何を食べているの?」と聞くと

ドライフィッシュ
シールズ(アザラシ)
マスクオックス(ジャコウ牛)
などなど・・・

本当にそれを毎日食べているの?と聞くと
いや、昨日は誕生日だったのでスパゲティ、ポテト、ハリバットなど・・・
どうやらすべてを自分たちでまかなっている訳でもなさそうです。
(注:しかし、その後の聞き取り調査(子供達への)では、90%は土地のもの、その他10%は買ったものを日常的に食べているそうです)

おっと、子供達に話しかけれて
日記を書いている場合じゃなくなってきました。

また書きます。

2009年9月22日火曜日

生と死の分岐点

いまだにナイトミュートにいます。

風が強すぎて小さな飛行機のハスキーでは飛び立てません。
今朝一度、離陸しようとしましたが直前で断念しました。

「離陸前は生と死の分岐点」・・・とは言い過ぎかもしれませんが
ナイトミュート付近一帯は、強風地帯で離陸しても着陸できない
なんてこともありそうなので、誇張ではないような気がします。

冬山でもそうですが、
「行かなければ死なずにすんだ」
というあたりまえに聞こえる判断に起因する事故は、
いっこうになくなりません。

個人的に冒険チックなことをするとき、
もっとも重要な判断はいつ?
と聞かれれば、それはまず出発前でしょう。

出発前に
じっくり考えて、
死ぬほど考えて、
それで計画はどうなのか
おかしければ計画自体を変更、
それで実際に現場でどうなったら中止するのか、
どうなったら経路変更するのか、
そもそも変更できる経路はあるのか?
などなど、、

いろいろと考えると、
出発前の計画段階がもっとも眠れぬ夜になるはずです。

という私も、いろいろと考えて結局、
タクシー中にフルエルロンでも風上側のタイヤが浮いた感じになり
怖くなって中止したのですが・・・こんなの初めてです。


ということで滞在3日目、
校長先生が「どうぞごゆっくり」ということで
天候回復まで甘えることにしました。


つづく

2009年9月20日日曜日

Nightmuteの夜


Nightmuteという村にいます。
アラスカの南西部、ほぼベーリング海沿いです。


ナイトミュートという名前がとても気になっていました、
不思議で静かなイメージがしませんか?
実際、人口200人ほどのこの村の夜はたいへん静かです。

ミュートという言葉は、「場所」を意味するネイティブ言葉だそうです、
私は英語のmute、すなわち楽器の弱音器、もしくは電化製品の消音のことかなと思っていたので、なおさら静かな夜のイメージをふくらませていたのでした。
勘違いであっても静夜村で夜を過ごせるのは、なんとなくロマンティックです。

今日の飛行は、

チャルスバルーグ

ベセル

アトマウトルアック

ヌナピチャック

ナイトミュート

でした。

ベセルを越えると、周囲360度、無機質な湖沼群に囲まれて、
二年前にバローを目指したときの不思議な風景が思い出され、
とうとう自分の中のアラスカ空白地帯にやってきたという感があります。

日本であのまま飛んでいれば、まず知らなかったであろうアラスカ南西部の不思議な風景とそこに住む人々、そしていまここを飛んでいる自分のことを思うと、世の中に確実なことなんかひとつもありやしない、そしてこれからのこともきっとわからない、ただ確実なのは今があるだけ・・と思ってしまうのです。

チャルスバルーグで見つけた一編の文章を添えて
明日も魅惑的な1日でありますように、と願っておきます。

チャルスバルークより(旅初日)






アラスカ南西、飛行旅(1日目)

Chuathbaluk

という全く読めない村にやってきました。
場所はここです

タイトルのように「チャルスバルーク」と読むそうですが、
これが最初は、村人に聞いてもなかなかわかりませんでした。
ユピックエスキモーが大半の(一部、アサバスカンもいる)内陸部の村です。

前後しますが、本日の飛行は

フェアバンクス

ニコライ

マググラス

チャルスバルーク(ここの学校泊)

で、総飛行時間は、たぶん5時間半ぐらい。長いフライトでしたが、日本人にはあまり知られていない大河であるKuskokwm river(カスコクウィム川)沿いの黄葉飛行は、時が経つのを忘れてしまう美しさで晩秋の一人旅でも寂しくありません。

当初はニコライの友人宅で泊まるはずだったのですが、その友人、ムースハンティングでマッキンリー西麓に行ったっきりで帰ってこないとのこと、彼はハンティングガイドなので、まだムースが獲れていないということなのでしょう。ニコライには帰りに立ち寄ることにして、その後は一気に現在地まで飛んできたというところです。

そして、この人口約100人ほどのネイティブ村、チャルスバルーク!
なんと、皆さんの優しいこと。

まずは、タバコを吸いながらバギーを運転している女の子二人(推定10歳ぐらい?)が声をかけてきてくれたので学校まで乗せてもらいました。学校の先生と出会って仕事の後、スムースに学校宿泊を許可してもらい、これも嬉しい限りです。仕事を終えた後に歩いていると、村人さんが「今朝獲れたムースがあるから食べにきなさいよ」と誘ってくれたので喜んでその人の家へ。玄関には、ムースの生首があり家の中は解体作業中の大家族10数人が所狭しと並び、せっせとムースの肉を解体していました。若いのは3歳ぐらいから、年寄りは80ぐらい??まで。写真のおばあちゃんは、エスキモー語で挨拶をしてくれました。頂いたディナーはライスとムースのフライ。これがジューシーでめちゃ旨い。ちなみに肉のフレッシュとは、獲れたてホヤホヤということです。彼らにムースの解体と食べる部位について聞くと、体の部分すべてを食べるということで、それについては非常にプライドを持っているようでした。「特にマーローという骨の髄がうまいんだ」、と中年の男性が舌なめずりしていたのは、印象的でした。

サブシスタンスという言葉があります。
これは土地のものを自分たちで獲って食べて生活を成り立たせるということを意味するようですが、このネイティブ村の人たちの喜びに満ちた収穫と家族愛にあふれた光景を見ていると、現代の我々が失ったであろう「とんでもない大事なもの」の存在を認めざるを得ないような、そんな気持ちになったりします。

とにもかくにも初日から印象的な体験で、実にほんのりと幸せな気持ちです。アルコールによる化学作用なしでも幸せになれれば、人生すてきです。

これも独りの旅だからでしょうか?

写真上:相変わらず村の子供達の笑顔は素晴らしい
中央:喜びに満ちた作業であるところのムース解体、おばあちゃん嬉しそう!
写真下:ロシア系、タマネギ御殿

2009年9月18日金曜日

明日から

ここでお会いしましょう。

ハスキーが飛んだ場所がわかります。

まあ便利なのか、どうなのか。

試験的公開フライトといったところです。

2009年9月4日金曜日

カリブー猟(夜間飛行と死線)

ブルックス山脈の頂をなんとか越えて、その南にあるベテルス村へ着陸した。そのとき時刻は、すでに午後10時を回っていた。

通常アラスカ北極圏の8月中旬は日没が10時以降なのでまだ薄明るいが、この日は高曇りにあわせて乱層雲が散在していたので、すでに薄暗かった。それでも遠く北の空にはわずかに夕日が見える。日本などで飛行するとわかりにくいが、極北8月の夕暮れ時、南に飛行する場合、北に沈む太陽を背にするので進行方向は暗く、周囲はどんどん暗くなってゆく感じがする。逆に北へ飛行する場合は、夕日を見ながら飛ぶのでなかなか太陽は沈まない雰囲気がある。フェアバンクスとベテルスの日没時間の差は20分ほどしかないので、これは錯覚であるのだろうけど南北2つの日没時刻を追っかけて飛行しているような感覚は実に奇妙でおもしろい。

ベテルスで燃料を給油し、フェアバンクスの天気を確認してからすぐに離陸した俺は、なんとか今日中にフェアバンクスに戻ろうとしていた。ベテルスからフェアバンクスまでは、速度の遅いハスキーでは約2時間もかかるのでフェアバンクス到着は12時半、どう見ても着陸時には真っ暗闇だが、そのときはフェアバンクス国際空港に降りればいいと思っていた。夜間飛行は一年以上やっていないが特に問題はない。なにより明日のスケジュールも詰まっているから、なんとしても今晩中に戻ろう、とそれだけを考えていた。過密なスケジュールは自分の飛行で取り戻せばいい、みんなに迷惑はかけるわけにはいかない。

ベテルスを離陸、しばらく人工物が皆無の薄暗いツンドラの景色が続いた。ベテルスからフェアバンクスに戻る際は、ダルトンハイウェイを見つけてそれをフォローするのが一番安全で、まずその道を探す。しかし周囲の雲は次第に深まる闇とともに地形を隠し、自分の飛行高度にかかる高さの山の頂も見えない。山との不意な衝突を避けるため安全高度まで上昇、自分の位置把握に努める。静寂と闇色に染まった大地は、比類なき風景を見せてくれる日中とは対局の、完全なダークネスとしてどんな情報も発してくれない。ただ見えるのはユーコン川に近づくにつれて険悪になってゆく、わずかな光の反射で見える、たちの悪そうな雲だけだ。

雲を避けながら飛行すること1時間、やっとのことでそれとなく認識できる一本のダート道路、ダルトンハイウェイを発見、フォローする。夜間飛行用の操縦席視認ライトを点灯させ航空地図を確認する、飛行計器とエンジン計器が美しく照らし出されるなか、目で油圧計、高度計、速度計をひとつづつ確認しつつ地図に記載されている山の高度をていねいに読み取る。道路沿いを山にぶつからず雲を避けて飛ぶには、何フィートまで降下が可能かを知る必要がある。

ユーコン川を越える、灰色のダルトンハイウェイがまだはっきり見える、しかし雲はどんどん低くなっているような気がする。これは完全に闇夜になってきているための錯覚か、自分の姿勢と高度計を頻繁に確認する。地形判読に集中してしまい山に激突したパイロットの過去事例を思い出し、先人に学ぶのはパイロット能力の1つだと考えながら、自分の現在の飛行判断力を客観視してみる。航空局の定めた法的なマージンは十分ある、雲が厚すぎて雲上には出られないが、地面と雲の間がある限りまだフェアバンクスを目指せる。

暗夜の中、やっとフェアバンクスまであと30分のところまで来たとき、飛行経路であるハイウェイと雲の隙間が閉ざされてしまった。残り少しの道中であるがために執拗に雲の隙間を探すが、もうすでに漆黒になっていて雲を視認するのも困難だった。垂直尾翼だけ雲に入ったハスキーのストロボライトの反射が、雲の中で雷のように瞬く。幻惑を起こすこのストロボをOFFにし、着陸灯を点灯、なんとかフェアバンクスに戻ろうと雲の抜け道を捜すが、こういう状況はすでに危険であることも知っていた。死への道は、なんとか進路をこじ開けようとするパイロット自身にある。だから向かう道に確実に存在する死線は自分で決めて、その前に引き返さなければいけない。冒険における最大の安全手順は昔からこう決まっている。それはつまり・・・180度進路を変えること。

飛行高度、1500ft、5マイル先にある山の高さ約3000ft。
周辺は雲でべったりの夜間飛行。
そこがこのときの自分の死線だった。
いろんな思いを抱えながら180度ターンをし、ベテルスへ戻る。

今夜の旨い食事や、Uターンにかかるガソリン代の損失額を考えながら、北にうっすらと見える斜日を薄目で眺めつつ暗夜の雲層間を飛行する。地上と世の中の心配事が飛行状態にオーバーラップし、しばしエンジン音に異常を感じたりする。本当は何でもないはずのエンジンなのに。

ベテルスまで引き返すこと1時間半。
すでに真っ暗なベテルス飛行場に周波数をあわせ滑走路の燈火を点灯させる。
漆黒の大地に光るベテルス飛行場はリンドバーグが見たであろうパリの灯や零戦乗りの坂井三郎がみたラバウルの灯に匹敵する北極圏の灯として、ハスキーの前方に物語的に現れた。

午前1時半、着陸。
ベテルスロッジの前にハスキーをとめて翼の下にテントを張る。ピーク1ストーブに火を付けてお湯を沸かし、もう飽きてしまったマウンテンハウスを作っているとエンジン音で目を覚ました古老のパイロットがやってきた。ヘッドライトで照らすと寝間着のままでマフラーを巻いていた。

「大丈夫か?ケガはないか?お腹は空いていないか?」


思えば、深夜、この北極圏で飛行機を飛ばすなんて
誰でも不思議に思うことだ。
なにも見えないし何も撮れない、すべてが無駄だ。
それにただフェアバンクス帰るというだけで
夜間悪天候の飛行をするのは、どうかしていたかもしれない。


だが俺はそんな夜間飛行は嫌いじゃない。
それは見えない夜でしか見えないものが確実に存在するとおもうから。

2009年9月2日水曜日

カリブー猟(ブルックス山脈を越える)



カリブー猟の後、車でフェアバンクスに帰るジョンとヨシを見送った後、帰路の方角、南にそびえるブルックス山脈をぼんやりと眺める。眺めるといっても山脈の約8割は、べったりと張り付いた雲に覆われ、山は地面と隣接しているツンドラの丘ぐらいしか見えない。風が南西から強く吹き、山越えの突風が息継ぎをしながら、飛行場の吹き抜けを揺らしている。Happy Valleyという名前にはそぐわない場末のブッシュパイロットと血気盛んなハンターが集まるここでさえ、誰も飛んだりする気配はない天気で付近は灰色に染まっている。

ブルックスを超えるための基点である峠、アティガンパスは約7000ftの標高がある。唯一ダルトンハイウェイというダートが貫通しているこの峠も雲の中にあっては飛べるわけがない。

俺はフォードのトラックに積んできてもらった5ガロンタンク8本分の航空燃料をハスキーの翼上から注ぎ入れつつ、いろいろと思考をめぐらせた。

さて、峠の手前にある飛行場まで行って一晩やり過ごすか。
それとも山の上まで飛び上がって雲上飛行をするか。
それとも他の経路を探すか。

航空地図をじっくりと見回す。
どこかにブルックス山脈を越える経路はないか・・・

2年前、ブルックス山脈をアナクトブックパス村経由で越えて、
北極海のバローまで飛んだことがあった。
あのときの山脈を貫く谷、ジョンリバーの高度は・・・確か2000ft付近であったはず。
まずは山脈の北端まで飛行、天候をつぶさに観察し、
ブルックス山脈の弱点であるジョンリバーを通ることを考える。

Happy Valleyを惜しげもなく離陸、進路は南。
小雨のダルトンハイウェイ上を飛行しながら、行きにツンドラ上で見た白フクロウの巣やカリブーの群れを思い出した。山脈の北端、緩い稜線が突き出す場所あたりから雲が迫ってきて、これ以上ダルトンハイウェイ上を飛ぶことは不可能になる。ここで右旋回で飛行進路変更、山脈北端をなぞるように西に飛ぶ。目指すは、アナクトブックパス村の北の出口、ジョンリバーの谷だ。途中、山脈の北端は3000ftを超す頂も顔を出し、それにかかる雲から雪が真横に飛んできて機体のウインドシールドにパチパチと鳴らす。温度計の針は氷点下を差し、翼前面のなめらかなカーブに付着した水滴が今にも凍りそうな雰囲気で、揚力を奪われることを極端に嫌う自分が無意識のうちに飛行高度を徐々に下げていた。


ここはブルックスの北、
数多くのブッシュパイロットが死んでいった地


8月中旬だというのに白いベールに覆われた恐ろしくも美しい極北の山脈を飛んでいると、怖さに加えてもう死んでも悔いはないという複雑なトランス状態になってくる。これはパイロット特有のものだ。そう、生きているから死んでも悔いはないと思える心理状態を知りつつ、パイロットはやはり生きるために飛び続ける。そしてその先にあるもの、着陸後に待つ、たった一杯の煮詰まったまずいコーヒーであっても、それが生きて帰ってきたという最大級の安堵の証であり、生の実感を誰よりも深く味わえることを知っているから飛び続けるのである。例え誰からの賞賛がなくても・・

ジョンリバーが見えてくる、アナクトブックパスまではあと30マイル。雲の高さは徐々に上がってきていて山脈のほかの場所よりも天気がよい、なぜ海岸沿いに住んでいたはずのエスキモーがここに移り住んできたのかがわかる、ここはきっと山脈中もっとも天気がよい場所に違いない。雲は谷を通り、ちぎれ変化を作り、時に日射をもたらす。アナクトブック村上空を通過すると、付近を流れる雲は崩れ太陽の日差しをもたらしていて、その憶測は確信に思えてくる。

「このまま、山脈を飛び越えてベテルスまで行ってしまえ」

山脈を貫通しているジョンリバーの天気の良さに勢いづいた俺は、そのまま山脈の南に位置するベテルス村まで飛ぶことにした。そして、もしかしたら今日中にフェアバンクスに戻って旨い飯を喰えるのではないかという甘い期待を感じながら。

写真:8月中旬ブルックス山脈北端

2009年9月1日火曜日

極北カリブー猟(回収編)

カリブーの肉と角の回収、そしてハンターのひとりであるヨシの空輸は終わった。
残す最後の空輸回収作業は、
「仕留めたカリブーの回収を最後まで見届ける」と言い切った
ジョンを無事にHappy Valleyまで連れ帰ることだ。

しかしこの回収手順に俺とヨシは、いささか反対していた。

その理由は、

ハンティングキャンプ現地は前夜から強い風と雨に襲われ、川は増水して飛行機と肉とテントが置いてある大きな中州は削られ小さくなってゆき浸水甚だしく、すでに3つ張ってあった我々のテントも移動せざるを得なくなっていた状況だったからである。
そんな状況下では、まず人命を先に移動させてから、カリブー肉と角を・・・
という方針が当たり前だと思っていた。しかしジョンは、「俺は最後まで残る、肉と角の回収を先に頼む」と譲らない。これがアラスカンハンターというものの尊厳なのだろうか、それとも仕留めたカリブーの命を無駄にはしないという覚悟が自分の命と引き替えであってもよい、ということなのだろうか。

俺は、カリブーを獲っていない、しかしジョンはカリブーを2頭獲っている。
二人と肉と角があるこの中州の、小さな極北ワールドは、完全に狩猟者であるジョンの支配下に置かれており、思想が安全を上回ることを極端に嫌う俺も、支配者に逆らうことなどできなかった、「じゃあ、肉と角を優先しよう」俺はジョンが取り残されてサヴァイブする覚悟があることを確認した時点でそう言い、最後の肉と角を飛行機に乗せて離陸した。

中州は小さくなってゆく・・それはすなわちハスキーの着陸場所がどんどん減ってゆくということを意味していた。着陸場所とキャンプ地を兼ねていた小砂利で形成されている中州の長辺には、ブルーベリーなどの小さな植生で形成されている中規模なツンドラ帯が接続しており、それは中州というよりは巨大な島という面持ちであったので、いざというときはツンドラに降りればよい。
しかし歩けば、ソフトで甘美な足裏感覚を楽しめるツンドラには降りたくない。それにソフトであると言うことは、飛行機の接地に関しては悪条件であるし、未体験でもある・・・・パイロットは、未経験なことに関しては慎重でなければいけない、それに、未踏である極北大地へ、どこにでも降りるという行為は、自分の懐を形成する飛行審美性になんとなく合致しないものだということもわかっていた、なんでも「やればいい」というものではないのだから。

それでもヨシとカリブーの肉と角を運んでいく3回の空輸のうちに、着陸すると決めている中州の全長がどんどん短くなってゆく。それは着陸前点検手順の間際に見るジョンと非常用テントの接地位置でよくわかっていた。

中州で唯一、残された命としてのハンター、ジョン。
すでにヨシと肉と角はすべて持ち帰っているという事実が、ジョンの命の尊さをさらに際だたせる。

どんどん減ってゆく着陸帯。
果たしてこんな場所に降りられるのだろうか・・・
まともに平らな砂利の場所は、何feetあるのだろうか?
早くしないとジョンが川に一人取り残される。

手を振って風の方向を知らせてくれるジョンを見つつ着陸進入をしながら、彼が出発の際、フェアバンクスでパートナーであるステイシーとハグ&キスをしていたシーンを思い出す。アメリカ人の出会いと別れのシーンはいつも日本人の俺には強烈だ、なんで人前でそんなことをするんだという思いは、アラスカに通い慣れてきた今でも感じるが、それがこの瞬間には、この細く狭い中州に降りなければならないという自分の、この微細に波打つ心臓へのプレッシャーとして強烈に突き刺さる。

・・・なんとしてもジョンを連れて帰らねば。


着陸できる距離はすでに500ftを切っている。
たとえ300ft(100m)あれば、着陸できるという自信があってもパイロットはやはり長い距離の着陸帯が欲しい。飛行機を大地に降ろすのは、ギャンブルでも宝くじを買うことでもなく、また100歩譲っても、それが自分のための冒険だとか、自己実現だとか、ましてや記録更新などとは正反対の行為だ、これはヨシとジョンの命を彼らの大事な人のもとに送り届けるための飛行であり決して自分勝手な冒険なんかじゃない。

失速警報が常に鳴り続ける極限の低速進入、中州末端の、すでに川になっている場所へピンポイントで接地させる心理状態を保つ、たぶん接地時の尾輪は川の中だろう、それがかえって抵抗になって飛行機はすぐに止まるはず。

大地へ飛行機をたたきつけろ、飛行機よ止まれ。
川に尾輪が付いたと同時に主輪も砂利に接地、強烈なブレーキを加え、
エレベーター操作を行いつつフラップをあげる。

小雨の中、ジョンが手を叩いている。
飛行機は経験した中ではもっとも短い距離で止まったようだ、その距離50m弱。

飛行機から降りてすぐにジョンと荷物を放り込み、
離陸する。ジョンの膝の上には、ビールとウイスキーの空瓶が沢山入った
クーラーボックスが乗っかっている。なんでこんなもの持ってきたんだ?という自分の愚かさと、あえてやる愚かさの意味の大切さを感じながらヨシの待つHappy Valleyへ戻った。

着陸、エンジン停止、ジョンとヨシの再会、そして男同士の強烈なハグ。

「俺たちは、この瞬間、ブラザーになった、いままでは違うがこれからは家族同然のブラザーだ」

仲間と肉と、そしてカリブーの立派な角を持ち帰ったという事実と、ジョンの台詞が加わり、一瞬、安堵とともに強烈な眠気に襲われる、このままフェアバンクスまでワープしてシャワーを浴びた後、待っていてくれる西山さんの美味しい食事とうまいのビールが飲みたいと思う、「シャワーを浴びて、冷たいビールを飲みなさい」と優しく言って貰いたいとおもう。

アラスカンハンターの誇りである3つのカリブー角で装飾された車、Ford F-150でHappy Valleyからフェアバンクスまで戻るジョンとヨシを見送った後、ハスキーの横で低い雲と強い風で閉ざされているブルックス山脈方向を眺めた。

今日中にあの山脈を越えなければいけない。
そしてなんとしてもフェアバンクスに戻らねば。