2011年12月31日土曜日

2011のまとめ

今年もあっという間に終わってしまいそうです。

さて私にとっての2011年ですが、5年ぶりにアラスカに行かず、飛行もしない年となりました。今年飛行しなかった理由はさておき、とにかく沢山の事件がおこった年でした。そのなかで特に大きかったのはアラスカでお世話になっていた恩人の死。私の飛行活動を5年間支えてくれた恩人であっただけになんともやりきれない思いでした。アラスカで飛んでいるときと同じように(いやそれ以上に)生と死を深く考えさせられる年でありました。

アラスカ活動のアウトプットとしては、ナショナルジオグラフィックス誌の掲載を成し遂げました。ナショナルジオグラフィックスは日本版発売当初からの読者であっただけに、まさか自分の写真と文章が掲載されるとは思ってもみず最高に嬉しい成果となりました。いままでのアラスカ飛行のことは写真だけでなく出版に関する執筆も含めて今後も続けてゆくのですが、その活動はじっくりとライフワーク的にやってゆこうと思っています。一生になんども本を出版できるわけではないですし、それに足る経験も、そう・・何度も出来るわけではないので。

今年は日本で過ごす1年となりましたが、祖国に1年を通して住むことへの喜び、とくに自然の移ろいの美しさ、そして自然の恵みを頂きながら日々生活してゆくことの喜びを深く知った年でもありました。春は山菜を摘みながら、残雪で山スキー。夏は、付近を流れる小渓流でヤマベと戯れながら、その日のおかず分だけを釣って家で食べる贅沢。秋のキノコもたまりません。クマが頻出した今年の倶知安では野生のクマとの関係性を狩猟者と地元の人間として深く知ることが出来ました。北海道の片田舎での地域の人々と密着した山野的な楽しみは私にとって何よりの喜びなのです。

来年は、どういう年にしましょうか。自分の事ながら、大いなる変化をしたい年でもあり、いままでのニセコでの幸せな日常生活を大事にする1年にもしたい。あたりまえのことですが、自分の体は1つしかないので、出来ることも同時にひとつだけ。ですから1分も無駄にせず自分が死ぬまでにできるだけ多くの世界を知り、そしてそれらを深く考察してゆきたいと思うのです。そう知るだけでなく深く考察する・・・これが今年の目標でしょうか。

それでは、
今年、いろいろと関わってくださった皆様、ありがとうございました。
来年、関わりそうな皆様、またたのしくやりましょう。

それではよいお年を。

湯口 公

2011年11月6日日曜日

旭川講演会終了!

11/2におこなわれた旭川での講演会が無事終了です。

会場は、旭川小学校の体育館で100名程度の方々が来てくれました。
主催はPTAの方々でしたので、
聞いて下さった方々は
いわゆる教育関係者とそのご家族が多いのですが、
それは熱心に聞いていただきました。

今回は映像も写真も詰め込んだ
1時間前後の講演予定だったのですが、
なかなかに私自身が、ついつい熱く話してしまい、
1時間半も喋ってしまいました。

そりゃそうかな・・・子供さんたちもいたので、
なんというか、とんでもないけど夢はしっかり追ってる私のこと、
知ってもらいたかったんです。

いや知ってもらいたいと言うよりは、
「こんな、変わった事しているオジサンいるんだ・・・」ぐらいが妥当かな。

厳しい世界の果てに、救済があるってこと
何となく分かってくれただろうか。


ともかく、、、
このどうしようもなく退屈な人間ばかりの世の中を面白くしなければいけない。
それには、自分が楽しいことをしていなければならない。

苦悩ではなく、躍動。
しかしながら安易な楽でなく、苦の果てにあるなにか。
ストイックさは、人間の最も目指すべき美徳。

立ち止まって、安定を目指して、変われなくなったらアウトだ。

だったら貯めたお金で、株でもやりながら
お気楽海外旅行でもしていればいい。



Stay hungry, Stay foolish.

講演会でいいそびれたもう一つの言葉でした。


講演会関係者の方々、本当にありがとうございました。

また機会があればぜひ。

2011年11月1日火曜日

明日は旭川で講演会を行います

かなり突然なのですが
明日、北海道の旭川で
講演会をさせて頂くことになりました。

一般の方が対象ではなく、旭川の地域の方々(PTAの方々)に向けた講演です。
旭川と言えば・・・私の育ち故郷(幼少〜高校まで)なので、
故郷で講演が出来るのは嬉しい限りです。

思えば旭川は高校卒業以降、本州とアラスカばかりにいたわけで
たまに帰るぐらいのものでした。
地元の方々にアラスカの話と景色を堪能して頂けたらなぁと
(帰省気分で)思っています。

そういえば、PTAの方々・・・同級生とかいるんだろうか?
故郷というのは色々な意味で帰るのが楽しみですね。

講演会では、難しい話は程々に
空撮やオーロラなど美しい映像メインでやっていこうと思っています。

来られる方は楽しみにしていてくださいね。

2011年10月6日木曜日

追悼「スティーブ・ジョブス」

さっきニュースを見て愕然とした。
アップルのジョブスが死去していたのである。


CEOを辞任していたので、体調が悪いのは分かっていたが・・


思えばアップルのコンピューターとは1996年からのつきあいである。当時はジョブスがCEOではなく、ジョブスを追い出した連中のアップルだったので(ジョブスは1985年に自分でヘッドハントした元ペプシコーラのスカリーにアップルを追い出されてしまう)いまいちパッとしない製品ラインナップであった。しかもWin95というマックOSのコピー!!が世の中を席巻していて、周りのイエスマン君がこぞって購入していたWinコンピューター自体のおもしろさも革新性もない暗黒の時代であった。しかしその翌年からジョブスが戻ってきてアップルは復活した。退屈な連中ばかりであった世界を変えてくれたばかりでなく、世の中を面白くしてくれたのである。


 ジョブスの作る製品は極めてコンピューターらしくない工芸品なのだが、それは一体何を意味するのだろうか?それはたとえばクリエイティブな仕事をするとき重要な意味を持つのだ。コンピューターを使って仕事にかかるまでのあの微妙な時間・・起動中の時間がボアリングなワークではなく、なんだかワクワクするような創造的な瞬間になる・・アップルを持っている人なら分かると思うが、、それがアップルのコンピューターを使う大きな理由なのだ。それはOS自体の安定性やアピアランスの美しさにも原因があるのだけれども、制作者の精神が宿る工芸品としてあるコンピューターなど世界のどこを捜してもないだろう。


ジョブスがいなくなって本当に悲しい。ジョブスの言葉はアラスカの奥地にある小さな小学校にもアップルのポスターと共に張られていたり、この今使っているMacProにも宿っているし、、もちろん私自身の中でもいつもずっと鳴り響いていたからだ。


 世の中でエキサイティングなことをしてくれる大人は周囲にほとんどいない。世の中は本当に退屈だ。だから退屈から救ってくれる救世主は、とても貴重なのだ・・・




以下、オバマ氏の声明です。




「スティーブは米国で最も偉大な革新者の1人であり、人とは違う考えを持つ勇気と、世界を変えられると信じる大胆さ、それを実行する才能の持ち主だった。地球上で最も成功した企業を自宅のガレージから起こして米国の創造的精神を見せつけ、コンピューターを個人のものに、インターネットをポケットに入るものにすることによって、情報革命に手を届かせたのみならず、直感的で楽しいものにした。そして話し手としての才能を発揮して子どもも大人も楽しませた。スティーブは、これが自分にとって最期の日だと思って毎日を生きるという言葉が好きだった。そうしたからこそ、われわれの生活を一変させ、業界全体を塗り替え、私たち1人ひとりの世界に対する見方を変えさせるという人類史上まれな功績を成し遂げた。世界はビジョナリー(先見的、独創的なビジョンを実現する人物)を失った。世界の大部分が、彼の発明した端末でその死を知ったという事実ほど、スティーブの成功に敬意を示す追悼の言葉はないかもしれない」


バラク・オバマ米大統領






改めてジョブスのご冥福を祈ります

2011年9月19日月曜日

落葉キノコの季節

世間は三連休の最後らしいのですが、
私には関係なく
カブで軽く里山を流してきました。

目指すは、先にある唐松林

ちょこっと
落葉キノコ探し

ちょっとボサがうるさかったですが、
落葉キノコを確保
ゆがいてダイコンおろしですな。


北海道はすっかり秋の寒さが戻り、
昨晩はストーブをとうとう焚いたのでした。

2011年9月13日火曜日

本物を見るチカラ

最近、事情があってテレビなんかを見る機会が結構ある。私はアラスカ活動当初、テレビなどのマスコミに出ることが「一定の成果」だと信じていた時期があった。現在は全くそういうことはないのだが、その一因はマスコミは本物を伝える意志があるのかどうか?というところにあった。

ここで「本物とはなにか?」という問いがでてくるだろう。まどろっこしいので簡潔に言うと、本物とは人間を含めた生物や静物の本性が出る瞬間であり、実際には泥臭い現実、すなわち長い人生(もしくは単なる時間経過)の中で繰り返す美しくも危険なパターンのことである。これを目の当たりにしているか、体験しているかどうかで(語り手の)そのストーリーの本物度が現れてくると思っている。本物は有り体に言えば、死の恐怖を知ることから始まるのだ。その点、作られた物語がドキュメンタリーとしてあらゆる媒体に垂れ流され、国民の大多数がそれを安易に受け入れ語っているように思える。自分で体験したこと、もしくは確認したことでなければ語るべき本物にはなり得ないのであるから、日常は本当に辛く悲しいウソの同意に満ちている。本音で語り合える瞬間は本当に少ない。

いつも狩猟の話で恐縮だが、私を含めた狩猟家の多くが狩猟行為を行う理由はただひとつ、その行為の対象に「生命の本質」という名の本物を見せつけてくれる動物が広大なフィールドをかけめぐって我々を軽く翻弄してくれるからだ。そして、とうてい及ばない野生動物に我々は何とかして追いつこうとするその瞬間に、他の誰も介入できない純粋な関係性、動物と我々の世界がごく短い間ではあるけれど構築される。そういう世界を知るようになると、他人の介入したストーリーや、わざとらしい演出を見抜く力を得、さらには擬世界を生きる人間を敬遠してしまうようになる。

私の住む田舎には、人知れず地味に生きる面白い人がいる。そういう人たちは自分の中の真理を見つけた人なのだろう、語らないが一緒にいたいと思う人間が少なからずいる。そういう人間関係の中で活動していると、間違った方向に踏み外してはいけないなと思うのだ。