2008年12月31日水曜日

2008年湯口的エッセイ

〜本当のアラスカ〜

今年は、アラスカの原住民(ネイティブ)が住む村を本当に数多く回った。40ぐらいは回っただろうか?昨年までは、フェアバンクスとかアンカレッジとか白人圏の街をベースに空を飛んでいたのだけれど、今年は白人が全くいない場所ばかりに飛んでいったので、そういう意味で本当のアラスカを界間見た様な気がした。

今年、私がはじめて感じた「本当のアラスカ」とは、

エスキモーやインディアンだけが住む村のカルチャーであり、
舗装されていない(舗装できない)道路が放つあの独特な埃っぽさであり、
そして村の子供達の生きる笑顔とその裏に見え隠れする大人達の
説明しがたい虚脱感みたいなものだった。
大自然に代表される表向きのアラスカだけではなく
これからはネイティブだけの村に行って
その深淵に触れてみたいと思うようになった。

〜芥川賞〜

今年は、二人の女流作家が受賞した。
川上未映子さん、作品はともかく歌手で作家(自称、文筆歌手)というのがユニーク。自分も「野営飛行家」という訳の分からないネーミングをしているので応援したくなった。
楊逸さんは、受賞作も良かったけれどその前の「ワンちゃん」が大変印象的だった。女性の感性と、それに他国の感性が混じると、さらに心に響く表現になるのだな、と。

〜自由な国アメリカ〜

オバマ氏の演説で「アメリカは、あらゆる事が可能な国だ」と言っていた。
確かにそう思う。飛行機の運用に関して言えば、アメリカ以外で自由に飛行機を飛ばせられる国はない(特に私のような貧乏人は)でも、もしアメリカより断然近い国ロシアで飛行機が自由に飛ばせられるのなら、私は絶対にロシアに行っていたし、いやもしかしたら日本(北海道)でも良かったのかもしれない。でも自分が思うような飛行は、アメリカ以外では考えられないのが現状だ。
これは、飛行機に限ったことではなく他のジャンルでも同じだと思う。
あの国は本当の意味で地球上もっとも自由な国であることは間違いない。ちなみに自由ということは、みんなが幸せになれると言う意味ではなく、望んだものだけが自分の価値観における幸せを得られるという意味であり、そこらへんの感覚はこの国とは大きな差違があるような気もする。
だから、どう・・ということは別に無いのだけれど。

〜デジタル〜

デジタル○○、、というのがすごい。
思えば、私が行う表現すべてがデジタル経由である。
Web、出版、写真展、映像、、、すべてデジタルを介しての出力だ。
個人表現のスピードとマスコミをスルーするという意味において、
完全な曖昧さの排除はデジタルの革新的な部分であり、
そこから直接くるメッセージや作品は受け手個人に
他者のバイアス無しに直接ヒットする。

近年、デジタル表現における曖昧さの欠如・・
などと、よく言われたりするけれど

厳しい山に入ったり、飛行機に乗ったりするとき
曖昧さは死を意味するので、私は「アナログのあの曖昧さが重要だ」とか
いう人をあまり信じない。曖昧さは、自分の尺度の中で生まれる
揺らぎみたいなものだし、それはあくまでも自分の頭の中での話であり、
最終的なアウトプットの段階において「曖昧さ」はちょっと失礼だと思う。
たぶん、アナログを語る人たちは、道具に酔っているのであり
自分もその昔、アナログなカメラが大好きだったから、それはよく分かる。
(いまでも所有しているし・・・)

まあ、普段の自分があまりにも曖昧=いい加減?なので
自戒の意味もあるのだが。


〜曖昧ついでに、元航空幕僚長〜

このニュースが出てきたとき、
「いろんな人から、質問がくるのだろうな」と少し身構えていたのだが
実際は誰も質問してこなかった。意外だった。

想定される質問は、こうだった。

「自衛隊の戦闘機パイロットも、普段から幕僚長の言っているような事を感じながら訓練しているのですか?」

「すくなくとも組織のTOPがああいう自体になってしまったことに、ショックであると思うのですが、いかがですか?」

「そもそも自衛隊員は何を心の支えにして命を張っているのですか?」

彼のやったことは、この国の曖昧さを露呈した。

そういえば、戦闘機パイロット時代、
カヌーイストの野田さんのエッセイを読んでいて

「自衛隊機が、轟音と共に空を飛んでいる・・・落ちろ!と叫んでみた」

というフレーズを読んだ覚えがある。

ナンセンスでありつつも
自衛隊員のイデオロギーについて
本にしてみると面白いかもしれない。

でも兵士は、語らない。
ただいつでも戦える準備をするのみである。

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