2008年6月9日月曜日

ヤマメのいる清流

きよらかな水涌く、ヤマメのいる清流


北海道の
森のブナの北限である
冷帯と温帯の境目にある里村に流れる清流で
お気に入りのフライフィッシングの竿の挙動を確かめる。


軽量な渓流魚用のフライポールはしなり、
フライのラインが大きくたわんで、毛針はそろりと流れる。

初夏の瀬をおよぐ生きもの達は、
岩の隙間から水面にそっと現れ、
毛針と一寸戯れる。


その姿を眺めるのは、詩を読むような気持ち。



ヤマメのいる清流は、とても文学的である。
釣り人は、表現しがたいニュアンスをフライラインの描く弧で形容し、
毛針の着水から、それを具現化してゆくことになる。

舞台は、清らかな渓流で
書き手は釣り師である自分、
主人公は、ヤマメと
渓流の流れが編み込んでゆく複雑な流れ。


ストーリーを作り出すアプローチからキャストの瞬間を
流れとして捉えるなら、書き手である釣り師は至福の時間を与えられる。


そんな流れの中・・




出版の期日がもう少し、もう少しと伸びてゆく中で
何も手につけられない自分は、今年アラスカに行こうかどうか
真剣に悩んでいた。

現実と夢の交錯は、よく起こる。


問題は、いろいろあった。
スポンサーがいないこと、飛行機に関する機材的な問題
毎年、数ヶ月しか飛行できない
刹那的な企画に対する先の見えないどうしようもない不安。


いままでは一生懸命、ただ突っ走ってきた。
アラスカに飛び出せば、
アラスカの空を飛べば、
飛行機を買えば、北極海に行けば、

そして、
今までの体験をもとに
本を執筆すれば・・・


そのすべてをやって来た自分。

その時その時を全力で生き切れば、何かが起こると思って
実際、いろんな事が起きた。

それは、想像できないような次の瞬間だった。



僕の、これから起こることの
次の瞬間は何なのだろう。
いきつくところの、夢の先が知りたい。
誰かに教えてほしい。



いま、毛針を追うヤマメの姿を見ておもう。


もしかしたら、
ヤマメのいる渓流が文学的なのではなくて
その場所でおこなうフライフィッシングという流線形の行為が、
文学的なのかも知れない。


舞台は、整っている。
だが流線を描く著者がいなければ、物語は動かない。


それとも、僕なんかいなくったって
ヤマメのいる渓流は、
ただ延々と繰り返すストーリーとして
そこに存在し続けているのだろうか。




初夏、6月
北海道南部

とある白昼の渓流にて

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