2011年9月13日火曜日

本物を見るチカラ

最近、事情があってテレビなんかを見る機会が結構ある。私はアラスカ活動当初、テレビなどのマスコミに出ることが「一定の成果」だと信じていた時期があった。現在は全くそういうことはないのだが、その一因はマスコミは本物を伝える意志があるのかどうか?というところにあった。

ここで「本物とはなにか?」という問いがでてくるだろう。まどろっこしいので簡潔に言うと、本物とは人間を含めた生物や静物の本性が出る瞬間であり、実際には泥臭い現実、すなわち長い人生(もしくは単なる時間経過)の中で繰り返す美しくも危険なパターンのことである。これを目の当たりにしているか、体験しているかどうかで(語り手の)そのストーリーの本物度が現れてくると思っている。本物は有り体に言えば、死の恐怖を知ることから始まるのだ。その点、作られた物語がドキュメンタリーとしてあらゆる媒体に垂れ流され、国民の大多数がそれを安易に受け入れ語っているように思える。自分で体験したこと、もしくは確認したことでなければ語るべき本物にはなり得ないのであるから、日常は本当に辛く悲しいウソの同意に満ちている。本音で語り合える瞬間は本当に少ない。

いつも狩猟の話で恐縮だが、私を含めた狩猟家の多くが狩猟行為を行う理由はただひとつ、その行為の対象に「生命の本質」という名の本物を見せつけてくれる動物が広大なフィールドをかけめぐって我々を軽く翻弄してくれるからだ。そして、とうてい及ばない野生動物に我々は何とかして追いつこうとするその瞬間に、他の誰も介入できない純粋な関係性、動物と我々の世界がごく短い間ではあるけれど構築される。そういう世界を知るようになると、他人の介入したストーリーや、わざとらしい演出を見抜く力を得、さらには擬世界を生きる人間を敬遠してしまうようになる。

私の住む田舎には、人知れず地味に生きる面白い人がいる。そういう人たちは自分の中の真理を見つけた人なのだろう、語らないが一緒にいたいと思う人間が少なからずいる。そういう人間関係の中で活動していると、間違った方向に踏み外してはいけないなと思うのだ。

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