2009年2月12日木曜日

エゾ鹿猟について

今シーズンから北海道ならでは!のエゾ鹿猟を体験しました。


土曜日、北海道の三笠&日高地方へ
師匠と共に鹿猟に行く。

日の出と共に、厳冬期、三笠の山谷へ分け入る。
尾根と沢の二手に分かれて
鹿の足跡を確認しながら、全方位警戒しつつ
自分の担当である谷を奥へと歩く。

歩くといっても
ある程度の新雪の中をラッセルしながら、
息はゼイゼイ、足を一歩前に出すたびに肩は上下し
それに浅い角度で持つ銃の重みがこたえる。
いつでも対応出来るように銃は両手で持つよう
事前に師匠から指示があった。

息を殺してのラッセルでありつつも
鹿に気配を知られてはまずいので
咳払いすら出来ないこの緊張感。

その後結局、2時間も鹿を追って
尾根まで上がってゆくが、
足跡と十数頭分のねぐらを発見しただけで鹿は見つけられなかった。
鹿のねぐらは、尾根上の意外と見晴らしの良い場所にあり
寝ているときも、警戒できる場所にいるのだな、と感心する。

狩猟をやる理由のひとつは、
自然を知ること、少しでも自然のシステムを理解したいという
欲求からであり、鹿が獲れなくてもこういう発見で
おおいに知識欲が満たされる。
狩猟をやらなければ、分からないことは沢山あるはずで
自分が未知の領域に飛び込んでいるという喜びを素直に感じた。

その日の午後は日高へ。
師匠のさらに師匠?と合流し鹿を探す。

太陽が山陰にチラホラし気温が低下するのを感じる午後3時半、、
沙流川の本流に一頭、子鹿が佇んでいた。
自分は気がつかなかったのだが、師匠が発見、
白い尻をこちらに向け、警戒心はまるで感じられない。
それを対岸から狙いをつけ、射撃させてもらう。

緊張の一瞬、ひとつの命を人差し指の一挙動で止める、
スコープ上に映る子鹿はなぜ一匹でそこに立っているのだろう?
と引き金を引く前に瞬時考える。
親はどこにいるのか?親とはぐれたのか?
こんな所に一匹でいる子鹿の理由は?
まだ鹿を一頭も獲ったことのない初心者の自分にしては、
冷静にそんなことを考えつつ、
初弾発射の引き金を引く。

大きな銃声の後、
子鹿は驚いた様子で5メートルほど川を下流に逃げた。
「あたったか?・・・すぐに次を撃て」
師匠の指示がとぶ。

次の弾を装填、立ち止まってこちらに対して横を向き
何が起こっているのか分かっていない様子の子鹿に対して
次弾の引き金を引く。

銃声のあと子鹿は、肩をビクッ動かしたあと
突然、近くにあった凍った川の浮島に走り込んで
「自分には何があったの?さっぱり分からないよ!!」
といった様子で
氷の浮島の上で狂ったように大きく3回ジャンプしたあと
浅い川に落ち込んで動かなくなった。
死んでしまったのだ。

対岸付近で射獲したので回収がたいへんだな、、と
師匠と話しながら二人でゾンメルスキーを履いて
数キロある林道を歩き獲物を回収する。
自分で初めて獲った獲物の喜びと
リュックに入った命の重みを感じつつ。

動物を殺すのは正直、心が重い。
だが自分の手でそうしなければ、絶対に分からないことがある。
それは狩猟をやってみて初めてわかる、獲物の捜索、発見、射撃、回収という
食料を得るまでの一連の過程がどれだけ難しいか、ということだ。
スーパーの出所がよく分からない肉を食べてきた今までの自分には
理解しがたい体験であり、命の重さとあいまって
自然観というか、生きる、生き残るということがどういうことかを
再度、考えさせてくれる行為でもあった。

帰宅後、狩猟者ではない友人達と
獲った鹿の心臓の刺身を頂く。
心臓の半分は弾が当たって無くなっていて
ほんの少しの分量だったけれど
生姜醤油につけてみんなで頂いたら、
本当に美味しくて、みんな喜んですぐに平らげて、
それがなんか意外というか不思議な気分だったけれど
そうか、こういう風に食べ終わるまで狩猟は終わっていないんだ、
と歯ごたえのある心臓を噛みながらおもった。

あの子鹿が自分の体の一部になる。
食べた後、自分に打たれる前の子鹿の姿が思い出された。

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