2009年2月18日水曜日
狩猟の魅力
狩猟3回目の記録です
日の出から1時間ほど外は2月季節外れの小雨が降っていて
狩猟としては、厳しいコンディションと思える。
この時期の北海道で濡れながら狩猟するのは不思議な感覚がある。
視界が悪い分、エゾ鹿の捜索は難しい。
冷たい雨は確実に自分の体温を奪う。
そんな中、2匹の雌鹿を数十メートル先の土手上で発見した。
一緒に出猟している師匠が、鹿に気付かれないように直接近づかず
土手沿いに80〜100mほど木に隠れて回り込んでアプローチするよう指示。
そしてプラス「独りで行ってこい」と。
ゴム長靴にスキーを履き、ストック無しの装備、
銃を両手で前方に抱え気配を殺しながら斜面を登り、
鹿を確認した場所から大きく迂回して森に入り込む。
ストックがない状態で斜面を斜めに登るのは難しい。息は切れるが殺す必要もある。音を立ててはいけない。
自分はいない存在と決め込み、濡れた雪をそろりと踏み込み土手に上がる。
回り込むと鹿のいる場所はすでに眼で確認できないので、感覚をたよりに行動する。地図もないし、だいたい見ている暇などない。森のなかにいる自分とエゾ鹿の位置関係をイメージで俯瞰し、師匠の指示を参考に自分で考え行動する。地形を把握するために1本1本の木々を判別できてしまうような感覚が芽生える。目的は鹿を獲ること、ただひとつ。すべてはその命題に沿って自分の行動が決定される。だから自分の存在は鹿を射止めるときだけ突如出現して、あとは1本の木と同じ存在であればいいのにとおもう。
ある程度登ったところで、自分の場所から10センチぐらいの大きさに見える
エゾ松の中から、2頭の雌鹿が走った。距離にして100m以上。
「しまった!こんな遠くで気付かれるのか?」と思いながら、
自分のいままでの行動の非とエゾ鹿の危険察知能力の高さを感じつつ、
その軌跡を横目で追う。
「自分から直角に、斜面を上へ走るエゾ鹿2頭・・・」
付近の森は横に長い。事前に見た地形から、離れる方向にはいかないはず。あいつら回り込んでこちら側にくる可能性もあるな、といっちょまえに考える。
考えて考えたその結果を逐次、行動で示さなければ狩猟は成功しない。
それは失敗の連続だったいままでのわずかな狩猟体験でも何となく分かる。
2頭の雌鹿が、すぐに視界から消える。
見えなくなった鹿の大体の位置は分かるけれど、だからといってこちらから
動いたりアクションをおこすことは、すでに無意味だ。
「鹿を追いかけても、追いつくわけがない。だから回り込んでこっちに来るのを待つんだ」師匠の言葉がうかぶ。
だからといって
逃げた鹿がこちらに来るという確証はない、、、、
呆然とたたずんでどうしようか、と
と思っていると、30メートル目の前の小さな丘の向こうから、突然
美しい姿態の鹿が2頭、丘の上に出てきた。
そして大きい方(たぶん母親)の鹿と自分の目が一瞬合い、
お互いの動きが止まる。お互いに言葉が通じたら、なにか話のできそうな場の雰囲気
「こんなところに出てくるとは!!」
自分としてはラッキーであったが鹿にしてみれば最悪の状況だろう、
十分、自分の銃の射程圏内に入っているのだ。
銃を構えるとともに、人差し指で安全装置を外し
引き金に指を添えてスコープを覗き、その中心に母親鹿をいれる。
と同時か少し早いぐらいに、母親は猛ダッシュで自分との位置関係において交角が最大になる(要するに90度)左方向に動き出した。スコープ上の母親がぶれて大きく動く。必死に跳躍し離れようとする白い尻の美しい獣、、標準が定まらない。距離が近い分、見かけの移動距離が大きいため銃と照準を大きく動かさなければいけない。
斜め45度ぐらいで、初弾を発射。
母親は崩れ落ちない、弾は外れた。
母親のあとを正確に猛追する子鹿の必死な姿を次のスコープ上の目標にする。
子鹿のスピードも母親同様速い。スコープ上のクロスラインに子鹿の心臓部を瞬時おいて射撃する・・が当たらない。鹿の移動速度がとても速く、狙うというよりは揺れているスコープ上のクロスラインに鹿がなんとかのった瞬間に、引き金を引くという感じだ。
そうして全弾発射が終わり、親子鹿は完全に森の向こうに見えなくなって
戦いは終わった。完全に自分の負け、もう追いつくはずもない。
森の中の野生エゾ鹿は、耳が良く聞こえ、非常に賢く、足が速い。四肢は非常に美しく、そして生存すること以外に余計なことを考えてはいない。だから完璧な存在と言える。
エゾ鹿の素晴らしい姿を見せてもらったなぁ、と
負け惜しみと悔しさの気持ちを交差させていると、
銃声を聞いた師匠が自分の場所にやってきた。
事情を話すと、
「鹿との勝負は、ほんの一瞬。その動きが止まったという・・
目があった時のほんの数秒で撃てないと鹿は獲れないよ。
走っている鹿を撃つのは難しいから。
出会ったときのために2〜3秒で早撃ちができる練習した方がいいな」
と教えてもらう。
銃という強力な武器を持ってしても、人間には圧倒的に不利な森の中。
そんな自分の思い通りにならない世界が非常に魅力的なのはなぜだろう?
そしてこんな現代において、狩猟は非常に希有な行為だと本当に思う。狩猟で得られるエゾ鹿の肉でなければ生きてゆけないという理由はどこにもなく、むしろ生協で販売している200g/400円の肉を購入するためのお金をどこかで稼ぐことが普通の世の中。それでもなお、狩猟というめんどくさい世界がわずかばかりに存在するのはなぜか?という思いがあるが、逆にこの体験をしなくなった世の中のほうが、おかしいんじゃないかという思いも芽生えてくる。
森の中の狩猟には、いろんな行為が詰まっている。
そしてその要素一つ一つにウソがない。
最後に残しておいたアウトドアが狩猟で良かった。
(まだあるかもしれないけれど)
日の出から1時間ほど外は2月季節外れの小雨が降っていて
狩猟としては、厳しいコンディションと思える。
この時期の北海道で濡れながら狩猟するのは不思議な感覚がある。
視界が悪い分、エゾ鹿の捜索は難しい。
冷たい雨は確実に自分の体温を奪う。
そんな中、2匹の雌鹿を数十メートル先の土手上で発見した。
一緒に出猟している師匠が、鹿に気付かれないように直接近づかず
土手沿いに80〜100mほど木に隠れて回り込んでアプローチするよう指示。
そしてプラス「独りで行ってこい」と。
ゴム長靴にスキーを履き、ストック無しの装備、
銃を両手で前方に抱え気配を殺しながら斜面を登り、
鹿を確認した場所から大きく迂回して森に入り込む。
ストックがない状態で斜面を斜めに登るのは難しい。息は切れるが殺す必要もある。音を立ててはいけない。
自分はいない存在と決め込み、濡れた雪をそろりと踏み込み土手に上がる。
回り込むと鹿のいる場所はすでに眼で確認できないので、感覚をたよりに行動する。地図もないし、だいたい見ている暇などない。森のなかにいる自分とエゾ鹿の位置関係をイメージで俯瞰し、師匠の指示を参考に自分で考え行動する。地形を把握するために1本1本の木々を判別できてしまうような感覚が芽生える。目的は鹿を獲ること、ただひとつ。すべてはその命題に沿って自分の行動が決定される。だから自分の存在は鹿を射止めるときだけ突如出現して、あとは1本の木と同じ存在であればいいのにとおもう。
ある程度登ったところで、自分の場所から10センチぐらいの大きさに見える
エゾ松の中から、2頭の雌鹿が走った。距離にして100m以上。
「しまった!こんな遠くで気付かれるのか?」と思いながら、
自分のいままでの行動の非とエゾ鹿の危険察知能力の高さを感じつつ、
その軌跡を横目で追う。
「自分から直角に、斜面を上へ走るエゾ鹿2頭・・・」
付近の森は横に長い。事前に見た地形から、離れる方向にはいかないはず。あいつら回り込んでこちら側にくる可能性もあるな、といっちょまえに考える。
考えて考えたその結果を逐次、行動で示さなければ狩猟は成功しない。
それは失敗の連続だったいままでのわずかな狩猟体験でも何となく分かる。
2頭の雌鹿が、すぐに視界から消える。
見えなくなった鹿の大体の位置は分かるけれど、だからといってこちらから
動いたりアクションをおこすことは、すでに無意味だ。
「鹿を追いかけても、追いつくわけがない。だから回り込んでこっちに来るのを待つんだ」師匠の言葉がうかぶ。
だからといって
逃げた鹿がこちらに来るという確証はない、、、、
呆然とたたずんでどうしようか、と
と思っていると、30メートル目の前の小さな丘の向こうから、突然
美しい姿態の鹿が2頭、丘の上に出てきた。
そして大きい方(たぶん母親)の鹿と自分の目が一瞬合い、
お互いの動きが止まる。お互いに言葉が通じたら、なにか話のできそうな場の雰囲気
「こんなところに出てくるとは!!」
自分としてはラッキーであったが鹿にしてみれば最悪の状況だろう、
十分、自分の銃の射程圏内に入っているのだ。
銃を構えるとともに、人差し指で安全装置を外し
引き金に指を添えてスコープを覗き、その中心に母親鹿をいれる。
と同時か少し早いぐらいに、母親は猛ダッシュで自分との位置関係において交角が最大になる(要するに90度)左方向に動き出した。スコープ上の母親がぶれて大きく動く。必死に跳躍し離れようとする白い尻の美しい獣、、標準が定まらない。距離が近い分、見かけの移動距離が大きいため銃と照準を大きく動かさなければいけない。
斜め45度ぐらいで、初弾を発射。
母親は崩れ落ちない、弾は外れた。
母親のあとを正確に猛追する子鹿の必死な姿を次のスコープ上の目標にする。
子鹿のスピードも母親同様速い。スコープ上のクロスラインに子鹿の心臓部を瞬時おいて射撃する・・が当たらない。鹿の移動速度がとても速く、狙うというよりは揺れているスコープ上のクロスラインに鹿がなんとかのった瞬間に、引き金を引くという感じだ。
そうして全弾発射が終わり、親子鹿は完全に森の向こうに見えなくなって
戦いは終わった。完全に自分の負け、もう追いつくはずもない。
森の中の野生エゾ鹿は、耳が良く聞こえ、非常に賢く、足が速い。四肢は非常に美しく、そして生存すること以外に余計なことを考えてはいない。だから完璧な存在と言える。
エゾ鹿の素晴らしい姿を見せてもらったなぁ、と
負け惜しみと悔しさの気持ちを交差させていると、
銃声を聞いた師匠が自分の場所にやってきた。
事情を話すと、
「鹿との勝負は、ほんの一瞬。その動きが止まったという・・
目があった時のほんの数秒で撃てないと鹿は獲れないよ。
走っている鹿を撃つのは難しいから。
出会ったときのために2〜3秒で早撃ちができる練習した方がいいな」
と教えてもらう。
銃という強力な武器を持ってしても、人間には圧倒的に不利な森の中。
そんな自分の思い通りにならない世界が非常に魅力的なのはなぜだろう?
そしてこんな現代において、狩猟は非常に希有な行為だと本当に思う。狩猟で得られるエゾ鹿の肉でなければ生きてゆけないという理由はどこにもなく、むしろ生協で販売している200g/400円の肉を購入するためのお金をどこかで稼ぐことが普通の世の中。それでもなお、狩猟というめんどくさい世界がわずかばかりに存在するのはなぜか?という思いがあるが、逆にこの体験をしなくなった世の中のほうが、おかしいんじゃないかという思いも芽生えてくる。
森の中の狩猟には、いろんな行為が詰まっている。
そしてその要素一つ一つにウソがない。
最後に残しておいたアウトドアが狩猟で良かった。
(まだあるかもしれないけれど)
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